これまでの記事で、日本酒の核心が「並行複発酵」にあることを整理してきました。
麹が糖を作り、酵母がアルコールを作る。その同時進行が、日本酒づくりの中心でした。
そして段仕込みでは、その発酵を安定させるために、酵母を優位に保ちながら仕込み量を増やしていく設計を見ました。
では、そもそもその「酵母」は、どこでどうやって増やしているのでしょうか。
ここで登場するのが酒母(しゅぼ)です。
酒母とは何か
酒母とは、もろみを仕込む前に、酵母を大量に増やしておく工程です。
別名「酛(もと)」とも呼ばれます。
役割はとても明確です。
発酵を安全にスタートさせるために、酵母を優位な状態にしておくこと。
酒母は単なる準備工程ではありません、発酵設計そのものです。
発酵の成否を左右する「スタート設計」といえる重要な工程です。
なぜ酒母が必要なのか
発酵は、酵母だけが存在しているわけではありません。
米や水、空気中にはさまざまな微生物が存在しています。
もし酵母の数が少ないまま大量の仕込みを行えば、雑菌が先に増殖してしまう可能性があります。
それでは発酵は不安定になり、品質も保てません。
そこで日本酒づくりでは、本仕込み(もろみ)に入る前に、酵母を先に増やしておくという方法をとります。
酒母は、微生物の“陣取り合戦”において、酵母を有利な位置に立たせるための工程なのです。
酒母は“失敗の歴史”から生まれた
現在では酒母は当たり前の工程ですが、最初からこの仕組みが完成していたわけではありません。
かつては雑菌による腐造(発酵の失敗)が多く、日本酒づくりは非常に不安定でした。
その中で、「先に酵母を増やし、酸性環境を整えてから本仕込みに入る」という方法が確立されていきました。
酒母は、経験の積み重ねの中から生まれた“発酵を守る知恵”なのです。
酒母で起きていること
| 項目 | 何が起きているか | 目的 |
|---|---|---|
| 酵母の増殖 | 酵母が大量に増える | 発酵を優位にスタートさせる |
| 乳酸の生成/添加 | 環境が酸性になる | 雑菌の増殖を抑える |
| pH低下 | 酸性環境が安定する | 酵母が有利に働く |
| 微量アルコール生成 | 発酵が始まる | もろみへの移行準備 |
酒母の中では、いくつかの重要な変化が起きています。
- 酵母が増殖する
- 乳酸が生成される(または添加される)
- pHが下がる(酸性環境になる)
- 少量のアルコールが生成される
特に重要なのが乳酸による酸性環境づくりです。
乳酸によってpHが下がると、雑菌は生育しにくくなります。
一方で酵母は比較的酸に強いため、優位に増殖することができます。
つまり酒母は、「酵母を増やす」と同時に、「酵母以外を抑える」仕組みでもあるのです。
酒母の期間と温度
酒母はおよそ2〜4週間かけて育てられます。
温度は10℃前後の低温で管理されることが一般的です。
低温でゆっくり増殖させることで、酵母の健全性を保ちながら、雑菌の増殖を抑えます。
ここでも「酵母を優位にする設計」が徹底されています。
乳酸の役割をもう一歩深く理解する
酒母の説明で必ず出てくるのが「乳酸」という言葉です。
では、なぜ乳酸がそこまで重要なのでしょうか。
乳酸の最大の役割は、環境を酸性にすることです。
多くの雑菌は中性に近い環境を好みますが、酸性条件では増殖しにくくなります。
一方で、清酒酵母は比較的酸に強い性質を持っています。
つまり乳酸は、「酵母が戦いやすい環境」を整えるための調整装置のような存在です。
ここで重要なのは、酒母は“酵母を増やす場所”であると同時に、発酵に適した環境を設計する場所でもあるという点です。
温度管理、乳酸の存在、水分量の調整。
これらが組み合わさることで、もろみに入った後の並行複発酵が安定して進みます。
酒母は単に酵母の“数”を増やしているのではなく、発酵の“条件”そのものを整えている工程なのです。
酒母は発酵の設計図
もろみで行われる並行複発酵は、日本酒づくりの中心でした。
しかし、その並行複発酵が安定して進むかどうかは、酒母の出来に大きく左右されます。
酵母の数が十分であること。
酸性環境が整っていること。
雑菌が抑えられていること。
これらがそろって初めて、段仕込みで量を増やしても発酵が崩れません。
酒母が弱いと何が起きるか
もし酒母で酵母が十分に増えていなければ、もろみに入った後の並行複発酵は不安定になります。
糖は供給されているのに、酵母の数が足りない。
すると発酵が遅れ、雑菌が入り込む余地が生まれます。
酒母は、並行複発酵を「成功させるための安全装置」ともいえる存在です。
まとめ
酒母は、日本酒づくりにおける発酵のスタート地点です。
- 酵母を大量に増やす
- 乳酸で酸性環境をつくる
- 雑菌の増殖を抑える
- 安全な発酵の土台を整える
発酵をどう進めるかだけでなく、「どう始めるか」まで設計されている。
そこに、日本酒づくりの合理性があります。
次回は、この乳酸をどのように用意するのか――
生酛・山廃・速醸の違いを整理していきます。


コメント