化粧品の歴史|古代から現代までの流れ

化粧品の中身(1級)

化粧品の歴史は、「色をつける・においをつける」化粧の習慣から、安全性を重んじる工業製品へという流れで整理できます。1級では年号の暗記より、「どの原料が、なぜ使われ、なぜ変わったか」をつかむと覚えやすくなります。(確認日:2026年11月3日)

このテーマのまとめ:化粧品の原料まとめ|水性・油性・界面活性剤

この記事は、原料と法律の変化に軸を置いて、流れで読めるようにまとめました。

化粧の起源

化粧のはじまりは、飾るためだけではありませんでした。古代エジプトでは、鉱物をすりつぶしてつくったアイメイクが使われ、強い日差しや砂ぼこりから目を守る役割もあったとされます。

  • 鉱物を粉にしてペースト状にし、アイラインやアイシャドウに使った
  • 化粧は男女を問わず行われ、儀式や象徴の意味をもつこともあった
  • 香料は、宗教の儀式や、ミイラづくりの防腐の目的で使われ、のちに美容の目的へ広がった

白い肌をつくる「白粉(おしろい)」の原料にも歴史があります。鉛や水銀を原料にした白粉は、江戸時代にも売られていました。安全性への意識が低かった時代の原料には、のちに問題になるものもあります。

日本の化粧の歴史(年表)

日本の化粧は、江戸時代に庶民へ広がりました。身分や結婚の有無を表す、社会の決まりごとでもあった点が特徴です。

化粧の歴史を上から下へ並べた縦の年表。古代エジプトでは鉱物を使ったアイメイク、江戸時代に化粧が庶民へ広がり白粉と紅とお歯黒と眉の化粧が中心、明治時代に鉛中毒が問題となり無鉛白粉が研究され、1873年に皇室でお歯黒と引眉をやめると発表、2001年に化粧品の規制緩和で全成分表示が始まった、という4つの時代の流れを示している。
時代できごと原料・制度のポイント
平安〜江戸お歯黒(歯を黒く染める)が、貴族の習慣から、江戸時代には既婚女性の習慣として続いた材料は五倍子粉(ふしこ)と鉄を含む液
江戸 元禄期(1688〜1704年)流通網が整い、化粧品が京都・大坂の庶民の手に届くようになった白粉・紅・眉・お歯黒が化粧の中心
江戸 文化・文政期(1804〜1830年)江戸の女性にとっても化粧が身近な習慣になった。庶民向けの化粧の手引き書『都風俗化粧伝』も出版された白粉は鉛や水銀を原料にしたものが売られた
明治西洋化が進み、1873(明治6)年に皇室でお歯黒と引眉をやめると発表された。鉛白粉による鉛中毒が問題として認識され、無鉛白粉が研究・発売された原料の安全性が課題になった
2001(平成13)年化粧品の規制緩和。種別ごとの許可・承認制を廃止し、全成分表示を義務化した(平成12年厚生省告示第332号、2001年4月施行)事前の承認から、企業の責任と情報開示へ

「一度ここで整理しよう」としたいのは、2001年の転換点です。規制緩和の前は、化粧品の種別ごとに許可・承認が必要でした。この制度を廃止し、使用した成分をすべて表示する全成分表示が義務になりました(平成12年厚生省告示第332号、2001年4月施行)。緩和後は、配合を禁止・制限する成分のリスト(ネガティブリスト)と、特定の成分群で配合できるものを示すリスト(ポジティブリスト)で管理する考え方になっています。くわしい表示のルールは全成分表示の読み方、配合の制限は化粧品基準で扱います。

西洋の化粧の歴史

西洋の化粧も、古代エジプトのアイメイクや香料の利用から始まりました。

「原料が人の健康に与える影響を確かめ、ルールで管理する」流れは、日本では上の表のとおり明治期の鉛中毒の問題と、2001年の制度の転換につながります。

近代の化粧品産業

明治以降、化粧品は手づくりや職人の製品から、工場でつくる工業製品へと移りました。この流れを、原料の面から整理すると次のとおりです。

  • 化粧品の原料が変わった:鉛を使う白粉から、鉛を使わない白粉、さらに粉体(酸化チタンなどの無機顔料)を使うファンデーションへ(色材)
  • 洗う習慣が広がった:石けんをはじめとする洗浄料が普及した(界面活性剤)
  • 品質と安全性のルールが整った:薬事に関する法律の整備と、2001年の規制緩和以降は、成分の表示と配合制限で安全を守る仕組みになった

試験での問われ方(取り違えやすい点)

次の違いを押さえておきましょう。

  • お歯黒と引眉:明治6(1873)年に、皇室でお歯黒と引眉をやめると発表されました。
  • 白粉の原料:鉛や水銀を原料にしたものがあり、鉛中毒の問題が認識されて無鉛白粉が研究されました。
  • 2001年の転換:「種別ごとの許可・承認制」を廃止し、「全成分表示」を義務化しました。
  • 日本で化粧が庶民に広がった時期:江戸時代(元禄期から文化・文政期にかけて)です。

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